必要以上に「気にしてしまう」ことが増えてるんじゃないかと思う。

特にインターネットが発達して、
顔を合わせずにコミュニケーションが成り立つ今において。

「もしかしてこんな風に見られているのかも…」とか、
「あれ、自分のこと言ってるのかな?」とか。

気になるわけだ、自分が。

それだけ外的刺激やコンタクトが多い。

見られ方を気にすることは決して悪いことじゃない。
鏡の前の自分を見る―必要な視点。 

「こう見られたい」とある程度考え、誰もが服装なり言動なり自分で決めている。
しかしながら印象や受けとめ方、全て相手が決めること。 
身だしなみだってそこから始まる。
大切だ。

だが。

必要以上に「気にし過ぎる」ことが増えているのではないかと感じている。
社内や近所づきあいだけでなく、「個」としての露出が増える。
従ってそれは、必然なのかもしれない。

しかしながら。

実際には自分が思うほど他人は自分を見ていない。
(一方で意外なところで見られていたりする。)

人は皆、自分を中心に考える。

誰かが言っていた。

“全ての人に好かれようとするな”

と。

一理ある。
ただ僕は、「好き嫌い」というベクトルで物事を捉えるのは好きではない。

ちょっとしたことで相手を嫌いになる必要もなく。
(決定的な事件があったら別だ)

自分はそれは「温度差」だと考えている。
一つの事象に対しての温度差。
生き方に対しての温度差。

「熱い・冷めている」という二項対立でも表現しきれない。
とても微妙な温度差が人にはある。

温度が近いほど「気が合う」ということになる。
温度差が大きければ「気に入らない」となる。
しかしそれは「嫌い」とは違う。

話は戻るが、全ての人に好かれようとは思わない。
接する人、知る人―それは分母と言える―が増えるほど、
自分のことを「好かない」人も増える。
例え誰かが「人気者」だとしても、全ての人に好かれると言うのはあり得ない。

僕は何かに固執しすぎるし、頑固だ。
空気だって読めないし読まない。

だから自分は。

(少しでも)
気にかけてくれる人
信頼してくださる人
気持ちを分けてくれる人のために全力を尽くす。

些細な一言。
瑣末な噂。

それを気にするかどうかは自分次第。
結局のところ、噂は噂だ。
己の目で見、耳で聴き、肌で感じたことを信じたい。

必要以上に気にする事なかれ。

気にしてたって何にもならないことも多い。
それは時間の無駄。
心の浪費。

それが自分の人生にどれだけの影響を与えるだろうか。

力の注ぎどころを間違えちゃいけない。

気にしない力が、必要なんだ。

今は。

気遣いも大事だけど、気にしない力も大事だ。

上下逆さまにした空

ただ、気持ちを分けてくれる人のことを考えて。

毎日を過ごす。

それだけのこと。