三週間ぶりに病院の外へ出ると、ドーナツの匂いがした。自衛隊の航空機が、轟音とともに夏空を南東へ向かっていく。

20日間の入院を終え、現実へ戻ってきた。長い時間だったような、一瞬だったような、不思議な感覚。入院も退院も、生まれて初めてだった。足取りは軽い。

こんなことを記事にするか迷った。「自己管理ができていない」と思われるのが嫌だった(自己責任ではある)。それでも書こうと決めたのには、3つの理由がある。

  1. 人生の転機として記録しておきたい
  2. 正しく自分のことを伝えたい
  3. 読んだ人が健康を考え直す小さなキッカケにしたい

期間中、ベッドに座りながら『入院記録』という名の日記を付けた。することがなくなる度にノートに向かった(だいたい無い)。以下、日記から抜粋して順にまとめてみました。


突然の入院


2020年5月21日。みぞおち辺りの強い痛みで目が覚める。このところ胃が痛かったので、胃潰瘍(かいよう)かと思った。

お腹をさすりながらキウイを食べると、さらに痛みは激しくなる。立ち上がれなくなり、もはや病院に行くしかなかった。

たまたま実家に泊まっていたのが幸いした。妹が仕事を休み、車で病院へ連れて行ってくれた。耐えきれず、急患で診てもらうことに。

駐車場に停めた車の中で嘔吐が止まらなかった。出るものもないのに、胃酸が逆流してくる。大事を取り、車椅子で院内へ。

検査を待つ間も嘔吐は続く。人目を気にする余裕はなかった。涙は出るし、脂汗で服はびっしょり。妹の心配そうな眼差しがつらい。ひたすら情けない。

たまたま検査に来ていた知り合いとすれ違う。後から聞けば、「おじいちゃんみたいだった」らしい。ああ恥ずかしい…。

痛みはますます強くなる。「いっそ気絶すれば楽になるのに…」などと無責任なことを考えたりもした。CTや超音波検査で取る仰向けの姿勢がつらい。耐えるしかない。

医師が言う。「膵炎です。入院してください」と。膵炎(すいえん)は膵臓が炎症を起こす病気。暴走した消化液が、膵臓自身や体のあちこちを火傷させるらしい。痛いわけだ。

病院のベッド

どのように病室へ行ったかは記憶にない。痛みが収まるのを願うので必死だった。


地獄の激痛、14日間の絶食


腹部の激痛は4日続いた。少し動くだけで体全体に雷のような痛みが走る。なるべく楽な体勢で、じっとしているしかなかった。夜は眠れなかった。

泣きっ面に蜂。炎症の影響で、39度近い熱がおさまらない。腰やふしぶしもつらく、満身創痍この上ない。二度とこんな病気になるものかと、シーツを握りしめて誓う。

内臓を休ませるために、食事もNG。結局14日間、絶食になった。初めは痛くて飯どころではなかったが、元気になると腹が減る。一番食べたかったのはアロエヨーグルト(今夜食べた)。

点滴

食事ができない間は、首の静脈に入れたカテーテルを通して、薬と栄養の点滴をした(上写真)。痛々しいが、これは痛くない。おかげで体重減も最小限に抑えられた。

5日目からは徐々に痛みも引いてきた。検査結果の値が日に日に落ち着いていくのが嬉しかった。9日目には平熱に戻り、10日目からは読書や先のことを考えて過ごした。貴重な時間だった。

15日目に食事再開。はじめは重湯(おもゆ)で、お粥の茹で汁のようなもの。プリンの味に感動する。食べ始めると胃腸の回復は早かった。翌日はお粥、その次は白いご飯。すぐに食べられるようになった。

重湯の病院食
(重湯と具なしのすまし汁の夕飯。あとプリン☆)


看護師さんへ、ありがとう


入院してはじめて看護師さんの仕事を知った。今までは失礼ながら「お医者さんのサポート役」のイメージだったが、厳密には違う。

看護師さんは、患者が安心して過ごすためのコーディネーターだと感じた。深い医療知識と気遣いをもって人の不安をやわらげ、一日も早い回復を手伝うプロだ。

彼らは大変な場面に直面することも日常茶飯事。日勤・夜勤は入り混じり、「慣れた」とは話されていたが生活リズムも取りにくい。

それでも嫌な顔ひとつせず、患者一人ひとりをサポートする。今回どれだけ助けられたか…ここで書き尽くすことは絶対に不可能だと思う。

看護
(画像はイメージです)

女性の看護師がいて、男性の看護師がいた。若い看護師がいて、ベテランの看護師がいた。少し怖い看護師さんもいた。皆さん等しく親切だった。

迅速・的確に処置をしてくださった医師にも感謝しているが、入院生活のケアという観点において、看護師さんへは「ありがとう」しかない。

退院する時の別れがつらかった。僕にはやらなければならないこと、やりたいことがまだまだある。ここでのんびりしていているわけにはいかない。現実に戻らねばならない。


当たり前が当たり前でなくなるとき


靴を履く。自由に歩く。雨の音を聞く。好きなものを食べる。友人と話す。仕事をする。大切な人と過ごす。普段の「当たり前」が、健康を損ねると当たり前でなくなる。

「失ってはじめて、その大切さに気付く」とはよく言ったものだ。文字通り痛いほどに、身にしみて再認識した。

「当たり前」の大切さ。健康であることがいかに幸せか。二度と忘れないように。(6/4㈭)


個人事業主も絶対に定期的な健康診断を


今回致命傷になったのが、健康診断を5年もサボったことである。5年経てば、体も変わる。良くも悪くも、いろいろ体に蓄積されていく。

あと3年で40歳。自分こそは健康だと、完全に油断していた。「健康そのもの」と診断されたのは、もう15年も前のことなのだ。

会社員ならば、必ず毎年健康診断を受ける。フリーランスや個人事業主は自己判断で行うことが多く、「どこも悪くないし」とタカをくくる。その結果がこれ。自信を持って言える。

そして不調を感じたら早く診てもらうこと。僕の場合、去年の夏から胃の調子がときどき良くなかった。その時点で病院へ行くべきだった。

体調不良で困るのは自分だけではない。家族、仕事相手、たくさんの人に迷惑を掛ける。誰にとっても最も重要な仕事は、健康管理だと思う。元気があれば、何でもできる。逆もまたしかり。


生涯禁酒宣言


「再発したら、次は分からない」と担当医が話す。膵炎の一番の原因はアルコール。「酒さえ飲まなければ良い」とも言われ(個人差はある)、良性の病ではある(良いことではない)。

これほど痛い目に遭い、人に迷惑を掛け、それでもまだ飲みたいと思うか。答えはノーだ。20日飲まなかった事実を習慣にしたい。

「酒は百薬の長」などと表現されるが、必ずしも正しくないと思う。血行促進だけなら運動、風呂でも良い。アルコールは体にとって異物。ほどほどにできないなら飲まないこと。

お酒はコミュニケーションを円滑にするか? 確かにそれはあるかもしれない。しかしその理屈だと、下戸の人はコミュニケーション下手か。そうではない。楽しくないか。それも違う。

依存する人は依存する。程度の差はあれど。人によって耐性は異なる。自分の場合、完全に見誤った。そもそもアレルギー体質なのに、好きだからと飲みすぎる。体に無理をさせていた。

禁酒-2

1杯だけが命取り。次の1杯は永遠に続く。ならば飲まない。ずっと飲まない。書けば飲めない。だから書く(5/29㈮)。


これを機に、再出発を


「運が良かった」と自分で思う。言い方は変だけれど。この時期で、この歳で良かった。まだまだ取り返しがつく。だから僕は運が良い。

後遺症も体力の低下もない。悪いものはすべて出し切り、デトックス。本来の体に今戻った感覚がある。入院前より格段に調子が良い。

「大切な人、家族、自分に期待してくれる人、虎太朗(犬)、シマ子(猫)。みんなのために再出発する。優しくて、人に頼りにされる、温かい人になる。大切なこと、大切な人を迷わずにずっと大切にできる自分でいよう」(6/4㈭)

退院を目前に控えた自分自身が綴っている。まさにこれ。これしかない。

コロナで仕事のあり方、家族のあり方、生活のあり方、健康のあり方。すべてが変わった。タイミング的にも再スタートにぴったりの時期。

「元に戻る」は戻らない。自分を変えていくしかない。変化に対応するほかない。できること一つひとつに、工夫をこめて(6/8㈪)。

虎太朗-2

実家に寄り、一番に迎えてくれたのは虎太朗だった。静かに尻尾を振って近寄ってくる。「兄さん、災難だったね」とでも言いたげに。犬は人の心を察するものだ。夜は久しぶりに一緒に散歩に行った。貯水池でウシガエルの声がした。

* * *

先生、看護師さん、母、妹、パートナー、心配してくれた友人、仕事の都合を付けてくださった方々。ただただ感謝です。

大切なものを大切にするための健康。
どうぞ皆さんもお体に気をつけて。
明日からまた、ゆっくり走ろう。