母は僕が生まれた頃から今と同じ、保険の代理店の仕事をしている。
ずっと働きながら、兄弟4人を育ててくれた。 

もともと夫婦で営んでいた会社。
もちろん「育休」なんていう制度もない。
子育てと仕事の(ある程度の)両立は、家での仕事だからこそ出来たのだと思う。

最近また、自分の周りでも妊娠・出産ラッシュ。
出産や子育てが他人ごとでは無い時期に自分もなった。
気になるテーマ。

というわけで。
母と、勤続30年になる事務の長谷川さんに当時のことを聞いてみた。
小さな会社で働きながら子育てをした母の話。

* * * 

僕が生まれた時に住んでいたのは芝山2丁目の団地。
ベランダから人形をポイポイ外に投げて大変だったそうだ。
その頃の事務所は祖父母の家だった。

上の妹の出産に合わせて、現在の戸建てに引っ越した。
当時は自宅の和室が事務所だった。
同時に、事務員の長谷川さんが入社くださった(母より少し年上)。
長谷川さんとまだ言えなかった自分は、「はせさん」と呼んでいたらしい。
(長谷川さんが子育てに非常に大切な存在だった)

兄弟で保育園にいったのは自分だけ。
それも1年に満たない。
「保育園は高いから辞めちまった」と母は話す。
保育園に子どもを預けなくても仕事ができる環境だったからこその選択肢。

僕が3歳で上の妹が1歳。そんな頃。 
和室の事務所で母が仕事をしている間、子どもは隣の居間にいる。
当時は父が外回り、母が内勤と外回り少々、長谷川さんが事務というフォーメーション。
自宅が事務所だから、子どもの分を含めて昼食も家で作る。

子どもが泣き出すと、母は隣の部屋に子どもの様子を見に行く。
解決すると仕事に戻る、という仕組み。
母が外回りで不在の時は長谷川さんがオムツを替えてくれる。
これは弟、下の妹の時も同じだった。
 
幼稚園に上がった。
送り迎えは父だったり、母だったり。
父は大きなバイクで送ってくれた。
黄・赤・緑・青の4色のランプが格好よく見えた。
幼稚園で急に体調が悪くなると、長谷川さんが迎えに来てくださった。
長谷川さんと栄光幼稚園の園長先生は、今も会うと挨拶を交わすそうだ。 

自分が小学校に上がる頃には、一番下の妹まで生まれて兄弟が4人揃っていた。
友だちには「鍵っ子(首から家のカギを提げている)」が多かったが、僕は一度も家の鍵を預かったことが無い。
家に帰ると、必ず誰かがいた。
母がいなくても長谷川さんがいた。 
学童にも通わなかったが、八百屋の裏にあったそれは楽しそうに映った。
 
下の妹が小学校に上がる頃、自宅の裏に事務所ができた。
これくらいになると、兄弟4人で大体のことはできた。

* * *

思い返してみると、自宅で仕事をすることにもいいところがあるなと。
もし母が離れたところまで働きにいっていたとすれば、こうはいかなかった。

夫婦共働きでも、子どもが家に帰ると「誰かがいる」。
幸せな環境だったと思う。

兄弟のオムツを替え、幼稚園まで迎えに来てくださった事務の長谷川さんは現在も事務所で僕の隣の席にいる。
本当に家族のような存在だと母は語る。
僕は今も頭が上がらない。

長谷川さんと母
(左が長谷川さん・右が母)

女性の「子育てと仕事の両立」が言われて久しい。
「ワーキングマザー」という言葉自体、その状態が少数派だからこそ生まれた言葉だ。
僕にとっては幼い頃から母が働いているのは当たり前のことだった。

こんな仕事と子育ての形も一つある。

もしこれから若い女性社員さんが入社してきても、小さな子どもと一緒に出社できる会社でありたい。